太平洋美術会 会員
部
東京の開成中学を病気で中退したのち、アカデミックな画風を主流とした太平洋画会研究所に学ぶ。20歳の時、同世代の岸田劉生や川上涼花らと共に 「ヒュウザン会」の創立(1912)に加わり、後期印象派の影響を受けた革新的な画風に接した。
「紫虹」という回覧雑誌を作り川村信雄の自宅を事務所にして、川上涼花や岸田劉生らと共に約150号ほどの回覧誌を発行した。また紫紅会として展覧会を開催。この仲間には鈴木金平、鈴木信太郎、川上涼花、岸田劉生、松村巽、三並花弟、萬鉄五郎、平井為成など錚々たる画家たちがおり、その中心的な役割を果たした。戦後は太平洋美術会の会員となり、理事を歴任した。
1916年に横浜に移り住んでからは、1919年の横浜美術会の設立に関わり、また関東大震災後には、横浜貿易新報社と協力して大規模な「横浜美術展」を開催して震災後の復興に努めた。その後も終生横浜の美術界の発展に力を注いだ。また1925年に弘明寺に転居し本格的な画塾を自宅に併設し、戦中、戦後を通じて若い画家や、美大受験生の指導に力を注いだ。本格的なデッサン用の教材をそろえ環境の整った川村画塾の存在は当時はとても貴重であり、ここで学んだ塾生は5,000人を超え、ここからプロの画家として排出した作家は数多い。鈴木克久、高梨潔、兵頭和男、一色亨二、島田正次など数えきれない。
(抜粋 川村信雄とその画塾 横浜市民ギャラリー学芸員 内山淳子)
画歴
1892 熊本市に出生
東京富士見小学、 開成中学を病気の為中退
1908 太平洋画会研究所に入学
1912 岸田劉生 万鉄五郎 川上涼花 斉藤与里らと共にヒュウザン会を結成
1916 文展、帝展、入選6回 安井曽太郎 谷崎潤一郎氏の知遇を得る
1919 横浜美術協会創立に参加
1925 震災復興美術展開催 川端竜子 安井曽太郎 前田青邨 石井伯亭 岡田三郎助を審査
に迎え桜木町駅前の市仮庁舎 (現市民ギャラリー)にて美術展を開催。今日のハマ展の基礎
となっていく。 同年、弘明寺に川村画塾を開設し以降終生後進の指導に力を注ぐ。
1947 太平洋美術画会に復帰し会員となる
1957 太平洋神奈川支部を創設し初代支部長となる
1955 横浜文化賞を受賞 1968 11月11日逝去 76才